インドへの旅/PART2

[第二部]ベナレスにて

     一

毎日予定らしい予定の無いインドでの日々だったが、今日はシタールを習いに行くという予定があった。

前日、昨日出会った深夜特急に出演していたというムケに頼んでおいたのだ。

予定があるということは、すべての行動に意図が生じる。

まずは、ホテルを出発し、ダシャーワメード・ガートまで歩いていく。

どこへ旅行に行っても思うのだが、いかにも観光客が行くような場所には行きたくない。

出来れば、現地の人が行く店に行き、現地の人が食べるものを食べたい。

もちろんこのインドに来ても思いは同じだった。

とりあえず、インドに来てそのおいしさにすっかり魅了されたチャイを、現地のインド人に混じって飲んでみることにした。

インド人が群がる道端のチャイ屋で恐る恐る「ハウマッチ?」と聞くと、無愛想な店主は十ルピー(二十六円)と言う。

昨日ビッキーに奢ってもらったチャイは、外国人価格でも三ルピーだった。

その三倍の以上の値段を言われ、思わす日本語で「高い!」と叫ぶと、店主はきょとんとしている。

英語で言い直してみても、分からないようだった。

見かねた英語の分かる客がヒンズー語に訳して伝えてくれると、あっさり「四ルピー(十円)」になった。

一人で買えたのでいい気になり、途中ラッシー屋でラッシー(約三十円)を買い、地元の食堂でサモサ二個を四ルピー(十円)で買った。

そのサモサを頬張りながら町中を歩いていると、昨日のホームシックが少しだけ収まった気がした。

しばらく町中をうろつき、ネットショップに立ち寄った後、シタールの店に行くためムケの店へ寄った。

そこからシタールの店を案内してくれたのはサンジュという若いインド人だった。

二十二才の彼は、無口だがなかなかいい男だ。

シタールの店に着くと、店主らしきインド人の男がいた。

その男に頼んでシタールを演奏してもらったが、どうもあまり上手くない。

聞くと、その男はこのシタールを売る店の店主で、教えてくれるのは別のインド人だという。

習う気なら明日また来いということだった。

最初から習いたいと言って来たのに、呑気なものだ。
 
仕方なく店を後にして、サンジュとガンガーを散歩することにした。

「昨日、韓国人の観光客が多いと言っていたが、日本人と韓国人の区別がつくのか?」

道すがらサンジュに聞いてみた。

日本人の自分でさえインドの町にいる東洋人の区別がつかなかったからだ。

中国人は醸し出す雰囲気から、明らかにそれと分かるが、若い韓国人は一見、日本人と見分けがつかない。

しかしサンジュは、ちゃんと見分けることができると言う。

そういえば、「ジャパニーズ?コリアン?」と聞くインド人もいたし、「チベタン?(チベット人)」と聞く不届き者も居たが、慣れた感じのインド人には、必ず「ジャパニーズ?」と声を掛けられていたことを思い出した。彼らなりの嗅覚で日本人と韓国人を嗅ぎ分けるのだろう。

サンジュと別れて、セレモニーを見るためにガードに座っていると、相変わらず様々なインド人に声を掛けられる。

しばらく座っていると、今度は七・八才くらいの花売り少女がやってきた。

もちろんこんな子供に英語が話せる訳もなく、黙って花を差し出し買えと言うのだ。

花は買わないが、変わりにこれをやると言って、持ってきていた折り紙で鶴を折って渡してあげた。

日本を旅立つ直前に、ある友人から「フランスでも子供たちに折ってあげたら喜んでいたので、インドでもぜひ持って行って」と言われ、餞別として貰ったものだった。

折った鶴を渡すと、少女はたちまち子供らしい表情なり、たちまち笑顔になった。

その様子を見た辺りに居る子供たちがどんどん集まってきて、仕舞いにはすごい人だかりになってしまった。

順番に鶴を折ってやり、一つずつに手渡していくと、自分が先だとケンカが始まる始末で、なだめるのが大変だった。

小1時間は折っていただろうか。

ひととおり折って渡した頃には、セレモニーも終わりに近づいているようだったので、「フィニッシュ!」と言って、恨めしそうに見るインド人の子供たちに後ろ髪を引かれながらガートを去った。

またいつものようにリキシャを拾って帰ろうと、「ハウマッチ?」と聞くが、男は英語が分からないのか、乗れ乗れの一点張りで埒が明かない。

諦めて次を探そうとすると、近くに居た若いインド人の男が、

「いくらなら払う気だ?」と聞くので、「十五ルピーだ」と言うと、その若い男はリキシャの男に「十五ルピーで行ってやれ」とヒンズー語で言ってくれ交渉成立。

リキシャに乗るのもいつも一苦労だ。

帰り道、二回停電になった。インドではいつものことだ。

停電になると、町の灯りは全て消え、露店のロウソクの光だけになる。

それはまるでロウソクで暮らしていた時代にタイムスリップしたような感覚で、なかなか良い雰囲気だった。

ホテルに到着し、十五ルピーを渡すとリキシャの男は初めて聞いたみたいに「十五ルピー?」と言う。

またかと思い、無視してホテルに入っていった。

ホテルに入ると、チベット人のフロントマンと、いつものようにアイコンタクトをして二階にある部屋に上がった。

昨日はかなりやばい感じでホームシックになっていたが、インドでの生活ペースも掴め、少しづつ楽しめるようになってきた。

今日の夕食は道端で買ったサモサ二個と梅干し。まだお腹は壊していない。

     二

翌日は朝八時に起床。

今日の予定は、昨日に引き続き“シタールを習いに行く”ということだけ。

いつものようにダシャーワメード・ガートに行く途中、地元の人ばかりの店に入って朝食を食べることにした。

すっかり慣れたものだ。プーリーとカレーとチャイで三十五ルピー(九十一円)。

店を出てそのままいつものインターネットカフェへ行く。

隣に居た日本人がミクシィをやっていたので、「日本語打てるんですか?」と聞くと、打てるとのこと。

早速、ブログやミクシィを更新して、会社にもメールを送った。

会社にメールを打ったものの、インドの日常の中で、日本を懐かしむことは正直言って殆ど無かった。

先日の猛烈なホームシックの時も、別段日本を懐かしんでいた訳ではなかった。

この恐ろしい国インドから立ち去りたかっただけだった。

神戸を長く離れると、自分が一体どこに帰属しているのかが分からなくなり、自分の存在が突如あやふやなものとなる、と書いた。

しかしその根底にあるのは、“存在”という概念が理解できない不安から沸き起こってくる恐怖だった。

自分が住んでいる神戸から派生し、地球、太陽系、銀河系と、それがどこに存在しているかは分かる。

しかし、その銀河系が存在している宇宙とは何で、それは存在しているのか。

そしてつまり“存在”とは何か。そう考え出すと、あまりの恐ろしさに涙が止まらなくなる。小さい頃からそうだった。

そして同じように、人間が生まれこの地球上に存在し、やがて死ぬということに対する恐怖も、理解や想像を超えて実感できない不安から生まれたものだった。

しかし、父親の死から魂は永遠だということを教えられ、肉体は滅びても魂は再び肉体を得て、この世界に舞い戻ってくると知った。

教えてもらったのではない、ただ知ったのだ。あるいは思い出したのかもしれない。

インドの生活にも慣れてホームシックから立ち直ると、それこそ全く日本のことを考えることはなかった。

何もすることがないので、ガンガーのほとりに立ち、東の遙か彼方にある日本を思い浮かべる時でさえ、日本という国は遠くの幻の国で、しかもその幻の国は、砂漠の中に存在する虚構の国のような気がしてならなかった。

つい数日前まで暮らしていた日本という国は、まるで別の次元の国で、そこで暮らす日本人たちは、巨大なシステムの決められた価値観の中で、いろんなことに統制されながら生きるアンドロイドような人たち。

そんな想いが浮かんできた。こんな風に感じたのは初めての経験だった。

そして、遠い日本への想いもを巡らせて、ふと我に返ると、生きている実感が、存在している確かさが、ふつふつ沸いてくる。

日本で大切に思っていたことは、すべてまやかしの幻想で、いまこのインドという地にただ立っていることの方が、生きている実感が沸くというのは、自分でもよく分からない感覚だった。

人は、失ってみて初めて大切なものに気が付く。

父が亡くなった時、その肉体的存在は消滅したかもしれないが、父に対する想いは消えていない。

それどころか、逆にいつもそばに居るような気がしていたし、そう感じるということは、実際にそこに存在しているのだと思う。誰がなんと言おうと存在している。

すべては想いが世界を創り出し、想いの中で生きているのではないか。

そう気付くと、日本であろうとインドであろうと、いかに自分の想いを見つめ直し、一つの存在として生きていくかが最も重要なことのように思えた。

そして、同時に思うのは、人は皆誰かに依存したり、依存されるのではなく、そうした想いを共有しながら、想いを受け止めながら、想いを持って一人の人間として生きるべきなのだ。

もちろんそれはモノやお金への執着ではないし、自立した想いだけなのだ。

ガンガーが流れていく東の空を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

一人で座っていると相変わらず次々と声を掛けられるが、ある時、インド人の観光客らしき親子に声を掛けられた。

聞くと、クシナガルから息子と二人で来ているらしい。ただ、英語が上手すぎて半分以上分からない。

しばらくそんなことをしていて、かなりの時間が経った。

そろそろ約束の時間なので再度ムケの店へ寄りサンジュとシタールの店へ向かった。

先生も来ていて、ようやく習うことが出来たのだが、シタールの弦はとても堅く、弾けたものじゃない。

最初の約束通り一時間習って、それで打ち切ることにした。これ以上やると指が切れてしまう。

ギターとは全く違う弦で、一朝一夕で習うのは無理だ。シタールをマスターすることは諦めるしかない。

そして次の日からは、もう何もすることもなかった。

毎日、同じように朝起きてダシャーワメード・ガートまで歩いていく。

そしてムケの店に行き、ネットショップに行き、ガンガーへ行き時間をやり過ごす。

望んでいたように、全くもって無為な毎日だ。

町で何人かの日本人には出会ったが、通りすがりに挨拶をしたり、少し立ち話をする程度で、特に親しくなるようなこともなかった。

それに、人見知りの分際で、無理に親しくしようとして気を遣ったりしては、インドに来た意味もないので、すべては計らわず成り行きに任せた毎日だった。

しかし、このままこの町での日々は単に過ぎていくだけなんだろうか、と正直言うと少しだけ不安だった。

が同時に、直感的に最後の日には何かがあると感じていた。

     三

ある日、いつものようにダシャーワメード・ガートでリキシャを拾おうと歩いていたら、小太りの若いインド人が近づいてきた。

日本語で話し掛けてくるのだが、その日本語がやたらと上手い。

「私は、ベナレスヒンズー大学の学生です。日本語を勉強しています。小泉首相はどう思いますか?ホリエモン事件は大変でしたね。私は昔NHKでバイトしていた経験もあります。私はもっと日本語を勉強したいです。私はあなたに町の案内をします。あなたは難しい日本語の助詞の使い方を教えてください」。

そう言った後、にっこり笑って、

「持ちつ持たれつです」。

妙な日本語を知っている。

どうせ暇なので、この妙な日本語を使う変なインド人に付き合うことにしたが、すでに夜も遅かったので、翌日待ち合わせることにした。

そしてその日は、ホテルに戻ってみるとどうも様子がおかしい。お腹が痛いのだ。

もしかして、このままお腹を壊さずに帰国できるかも!という儚い希望はその日の夜にうち砕かれたのだ。

結局、朝までずっとトイレから抜け出せなくなり、殆ど眠ることが出来なかった。

翌朝も、お腹が痛かったが、ホテルに居るのも勿体ないので、恐る恐るインド美術館に行くことにした。

美術館は昨日会った彼が通うベナレスヒンズー大学の校内にある。

それはまるで大きな都市公園で、ベナレスの町の喧噪とは違う雰囲気だった。

あまり興味を持てなかったインド美術館を出て、横にあった公園で少しの間昼寝をした。

しばらくして、そろそろお腹もやばい感じなので、一旦ホテルに戻り、昨日の彼との待ち合わせの場所に向かった。

彼は時間通りにやってきた。彼の名はアマナといった。

アマナが案内してくれた旧市街は、いつも行くダシャーワメード・ガートから少し歩いたところにあった。

やはり細く入り組んだ路地で、今日もどこをどう歩いているのか全く分からなかった。

インドの商人たちが買い付けにやってくる問屋街を歩く間、アマナはいろんな日本語の読み方や意味を質問してきた。

それに答えながらしばらく歩いていると、ある修道院に着いた。

ここには、ガンガーで死ぬために、訪れる死をひたすら待ち続ける老人たちが住んでいた。

特に病気で余命宣告されているような老人ではない。普通に暮らしている老人たちばかりだ。

ガンガーで死ぬ。ただそれだけが彼らの残された希望なのだ。

その修道院で暮らす僧侶の子供たちにまた鶴を折ってやり、その場を後にした。

しばらく町を案内され、次に行き着いた先は、占い師のいる建物だった。

「サイババって知っていますか?こには、そのサイババの一番弟子である偉い人が居ます。日本の俳優である緒方拳さんも占ってもらいました。インドの人たちにとって、この人に占ってもらうのは一生に一度あるかというぐらい貴重なことです。あなたは幸運です」

殆ど信じていなかったが、これもネタだと思って見て貰うことにした。

怪しげな部屋に入り、そのサイババの一番弟子だという男の前に座った。

男はまず金を払えと言っている。料金は千五百ルピー(三千九百円)だと言う。高いが今さら引き下がれない。

しばらく生年月日を聞いたり、手相を見たりしたあと、占いが始まった。

色んなことを言っていたが、笑ったのは、

「君は前世では韓国に居た。そして韓国のある寺の周りに山羊だ!」

と真顔で言うではないか。山羊って・・。

あと、こんなことも言っていた。ここだけやたら強調していたのだが、

「君は文章か写真で有名人になる。これは保証する」

それなら本当にいいんだけど、アテにはならない。

そんなこんなで占いの館を出るとアマナが聞いてきた。

「晩ご飯どうしますか?」

「昨日からお腹の調子が悪いからやめておく」

「そうですか。もし私のガイドが良かったのなら少しチップを頂けませんか?」

「いや、持ちつ持たれつにチップはいらんやろ」

そう言うと、アマナは握手を求めて立ち去っていった。

彼もさっきのサイババの一番弟子だとかいう男に紹介料を貰うのだろう。

インドはそういう国なのだ。

     四

いよいよベナレス最後の日となった。

相変わらず町は喧噪の中、人々がたくましく生きている。

いつものようにネットカフェに行くと、横には若い日本人女性が座っていた。

日本人は皆ミクシィをやっているからすぐ分かる。

お互いちょうどネットを終えたので、その若い女性と少し話をした。

彼女は京都出身で元美容師。三ヶ月かけて世界一周旅行をしている最中だと言う。

ニューヨークから出発し、イースター島、南米、ヨーロッパを渡ってこのインドにやってきた。

そして明日、香港に立ち寄り日本に帰るのだという。その女性いわく、

「南米も恐かったけど、インドはもっと恐い。空港でたじろいでしまった」

世界を一人で旅するような女性も恐れるインド。

そうかインドはやっぱりそうなのかと改めてインドの凄さを知った。

辺りをうろついた後、ムケの店に行くと、日本人の女性が店にやってきた。

彼女は三週間ほどのインドの旅で、旦那を日本において一人で旅をしているのだという。

その彼女とムケの店でしばらく居たのだが、どちらともなく晩ご飯を食べに行きましょうということになり、ムケに教えて貰ったレストランに行くことにした。

人見知りの人間にとって、初めて出会った人と二人きりで食事をするのは、正直苦痛なのだが、一人旅をしてみて初めて一人で食事をする虚しさを知った。

その虚しさを紛らわすためというのが建前上の理由だったが、彼女とはなんだか初めて会ったような気がせず、不思議とすぐにうち解け、楽しい食事となった。

聞くと自分と同じく、翌日ブッダガヤに行く予定だと言う。

ホテルもまだ取っていないということだったので、前日に電話して空きを確認しておいた宿に一緒に泊まろうという約束をして別れた。

日が空けて、ベナレスを後にする日となった。

早朝、ターミナル駅であるムガルサラ駅までの送迎に、ルイスが通訳として乗っていた。

ルイスはチップを上げなかったことで、今日もまだ機嫌が悪い。

しかし、駅に着くと「グッドラック!」と言って握手を求めてきた。こちらも強く握り返し別れを告げた。

駅では、またしても全く要領が分からない。

到着するホームまではなんとか辿り着いたが、列車はもちろんのこと車両がてんで分からない。

あたりはインド人客ばかりで、とても気安く聞けそうな雰囲気ではない。

しばらくホームを歩き回りやっと一組の西洋人カップルを見つけ、恐る恐る尋ねてみた。

するとその若いカップルは笑顔で、

「私たちと同じガヤ行きで、同じ車両だから探してあげる」と言う。

特に可愛らしい女性がリードして、自分とその彼氏を連れて、あたりのインド人に聞きまくってくれた。

ようやく車両が見つかり、乗車すると、その女性はこれまた親切なことに、

「私たちはここの席で、あなたはもう少し先。降りる時、ここまで戻っておいで。一緒に降りましょう」

と言ってくれた。

心強い仲間得て意気揚々と自分の席に行き、後半はずっと腹痛で寝不足だったため、ブッダガヤまでの四時間をぐっすり寝ることにした。

しばらく熟睡していると、「ナンバーフォー!ナンバーフォー!」と誰かが足をつつきながら叫んでいる。

ナンバーフォーは自分の席のナンバーだ。

「ホワット?」

「四番席、どこまで行く?」

「ガヤだけど」

「ここがガヤだ!」

やられた!と思い急いで身支度をして、列車を飛び降りた。

危ない。あやうく乗り過ごすところだった。あの西洋人が起こしに来てくれなかったのだ。

恨めしい気持ちで、仕方がないなと思いながら、ホームで西洋人カップルを捜してみたがどこにも見あたらない。

そうか!あの西洋人こそ乗り過ごしてしまったのだ!

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