いざ爾霊山へ!

歴史オタクたちが行く旅順・大連のドタバタ旅行記!

(2002年4月6~8日)

[第1章]大連空港に降り立った我ら5人組。

大連空港に降り立ち、丁寧(ていねい)ちゃんという可愛らしい名前の平らな顔をしたガイドさんに先導されながら、現地の旅行会社が用意したバスに向かって歩いていた。

するといかにも中国人という顔をしたオッサンが、僕らに何か手渡すではないか。見ると安っぽい2色刷りのチラシで、オモテにはこう書かれてあった。

「スチュワーデスもいるし」。
「女子大生もいるし」。

着いた瞬間にお姉ちゃんの営業をされるとは、たいそうな歓迎ぶりである。しかし日本語は妙である。「・・・もいるし」というのは、わざわざ中国までやってきた日本人たちに少しでも親近感を持ってもらおうとそんな口調にしているのか、それともうちの店は単にスチュワーデスや女子大生だけやないで、ほかにももっと色んなお姉ちゃんがいるんやで、そんでもってあんなことも、こんなこともできるんやで、という深い意味があるのかどうかは分からないが、とにかく日本語が妙なのである。

「サカモトくん、こんなキャッチコピー書いてたらアカンで」。
ヒグピー氏に言われて、「すいません。精進します」と、僕は答えた。
「やっぱり野郎5人だと、オンナ目当てで来てると思われてるんだろうなぁ」。
と健兄さんが言った。そして続けてこう言った。
「でもスチュワーデスはちょっとええな」。

健兄さんはだいだい看護婦とかスッチーとかの制服系に弱いのだ。

しかしオンナ目当てと思われるのも無理はない。ここ大連は観光というにはあまりに何もないからだ。たいていのパックツアーは、大連と旅順がセットである。そして、大半の旅行者は旅順に行くことを目的とし旅順には日露戦争の戦地跡を見るために行く。

僕らの目的ももちろん他の方々と同じ戦地跡観光である。

会社でアジア雑貨通販サイトを運営しているので、行く前に雑貨サイトの店長から中国に行くなら茶器とか中国茶などを買い付けてきてと頼まれたが頑として断った。そんなことに気を取られていては本来の旅の目的が中途半端に終わるかもしれないからだ。旅はあくまで歴史好きの一個人として行くのである。店長に「それでも社長ですか!」と、言われてもそんなことは問題にもならないのだ。

 ▼丁寧ちゃんと健兄さん。

それはいいとして、まさかこんな若者風情が、日露戦争の史跡を見るためにわざわざ大連および 旅順に来るとは、中国4000年の歴史でも見抜くことは難しいだろう。実際、僕らの年代の日本人がここ大連に来ることも珍しいはずだ。だからという訳でもなく、中国人のオッサンは来る日本人には誰かれなく「スチュワーデスもいるしチラシ」を渡しているはずだ。

そして、大連工場新設のための視察を目的としてやってきた機械部品工場を経営する頭のハゲ上がった社長とその幹部連中のオッサン社員たちは渡されたチラシを見て、
「ホンマにスッチーなんかおるんかいな。眉唾もんやでぇ」。

と一瞬いかにも興味なさ気を装いながら、しかし夜もふけてくると。

「ヒマやしだまされたと思ってさっきのチラシの店でも行ってみよか。まぁどうせスッチーなんかおる訳ないし嫌やったらすぐ帰ってきたらええやん。これも視察の一部やんか」。
とかなんとか言いながら店に吸い込まれていき、エロトークを炸裂させているオッサン連中を僕は容易に想像することができた。

ところで、ビジネスマン愛読書ランキングで堂々のトップを張り続けている司馬遼太郎の名著『坂の上の雲』をご存知だろうか?今回の旅のキッカケでもある本だ。描かれているテーマは日露戦争で主人公は愛媛は松山出身の秋山兄弟と詩人正岡子規だ。意外にも秋山兄弟と正岡子規は幼なじみで特に弟の秋山真之とは無二の親友でもあった。

そしてこの秋山兄弟はそれぞれ陸軍、海軍とその働きどころは違っても日露戦争の勝利に大きく貢献した。兄の秋山好古は日本で始めての騎兵隊を率いてロシアのコサック隊を悩ませ、弟の秋山真之はロシアの強力艦隊に対する全ての作戦を考え出した。日本海海戦では、野球で言えばランナーを一人も出さないような完全試合というカンペキな勝利を導き出した人物でもある。

そして、その「坂の上の雲」でも多くのページが割かれている旅順での戦いは同じ日本人として涙無しでは語れない壮絶な戦いの場であった。その旅順の総司令官だった乃木希典の名前は後世にも残り、東京の乃木坂は乃木将軍にちなんで付けられたものだ。しかし、戦後のもてはやされ方とは違って、実際の旅順での戦いは、そのあまりに愚鈍な指揮官ぶりによって苦戦による苦戦を強いられ、およそ6万人もの日本人がこの地ではかなく死んでいったのだ。

僕はそういった場所には目がないチョー歴史マニアだ。旅の行き先はほとんど全てが歴史に関わる場所であったり戦地跡であったりする。国内では行きたい場所はだいだい行っていたが、海外ではハワイ・真珠湾だけだったので前々からぜひこの旅順には行ってみたかった。そして3ヵ月前にこの「坂の上の雲」単行本全8巻をまるでオールスター出場かW杯出場みたいだが3年ぶり3度目に読み終え、『日本人として一度はその地を訪れなければならぬ場所への歴訪ツアー(海外編)』の第二弾として選んだのがここ旅順であり二百三高地だったのだ。

まあややこしい話に入り込む前に、まず野郎5人組を紹介しなければならない。僕のほか3人はうちの社員だ。まずはトミーズ健と瓜二つの健兄さん。制服がやたら好きな男だ。ちなみに彼は投稿系にも目がない。

次は、自衛隊が3度の飯と同じくらい好き!間食も大好き!という自衛隊マニア“豆タンク”だ。彼は、給与と休日のすべてを自衛隊に捧げており全ての自衛隊に関わるイベントには必ず出没するという男だ。最近ちょっと体型が豆タンクに似てきてる。

フランケンは20代半ばとは思えない落ち着きぶりでよく僕と一緒に居るとどっちが上司か分からないと言われる。そして同じ靴を“履くため”と“観賞用”に2つも買ってしまう程のシューズフェチでもある。

唯一社外の人であるヒグピー氏は、ギャグのセンスはダウンタウンの松本級と言っても決して言い過ぎではないほどの笑いの天才だ。彼のボキャブラリーの豊富さは目を見張るものがある。広告代理店に勤めておりこの旅の2週間後に社長に就任するのだが、現在は取締役営業部長兼クリエイティブ室室長!というやたら長い肩書きを持っている。クリエイティブ室室長だけあって服装もオシャレだ。

前に健兄さんがヒグピー氏のスーツ姿を見て、
「さすがオシャレですねぇ!」と言ったら、ヒグピー氏は
「いやいや寝間着みたいなもんやから」。
と訳の分からんこと言っていたがそれは今の話とは関係ない。

ところで僕にとっては念願の旅順であったしそのツアーに興味を持って参加してくれた人が居るというのは本当に嬉しい限りだったが、こんなバカ社長とその企てに付き合うその一行を客観的に考えてみるとヘンテコであることは間違いない。しかしいくら僕が好きだと行っても首に縄を付けて来た訳ではない。つまり歴史好きは僕だけではないのだ。健兄さんは何年か前に既に「坂の上の雲」を読んでいたし、その他多数の本を僕に薦められるままに読んですっかり洗脳されていた。フランケンも行く直前に「坂の上の雲」を僕から借りて読んでおり、結局「買います」。と言って文庫本8巻をすべて買っていた。

しかし、あんまりにマニアックな集団過ぎて怖がられるかもしれない。日本に帰って旅順に行ってきました!二百三高地で涙してきました!と言うと仕事がこなくなるかもしれないので、この旅行の本当の目的はごく限られた人だけに伝えることにしょう。

とは言え僕の知り合いには類は友を呼ぶで歴史マニアが多い。他にも行きそうな人にいろいろメールで誘った。結局都合がつかず5人でということになったのだが本当にそういう人が多い。旅立つ前にも元上司で現在大手広告代理店D社に勤める方からはこんな励ましのメールを頂いた。

飛行機で行くのは反対する。
やはり連合艦隊で臨むべきではないだろうか。
急ぎ、須磨に係留されているプレジャーボート三隻を灰黒色に塗り、
艦橋を作り、12サンチ砲を搭載する事を進言する。
なお、旗艦には司令長官公室を忘れないよう。
陣形は単縦陣で行くように。

ありがたきお言葉である。

バスの中では、中国人のオッサンにもらった「スチュワーデスもいるしチラシ」を誰が持っているかで健兄さんとフランケンがモメていた。僕は暇そうにしているヒグピー氏に、
「関空で買った『星野仙一猛虎革命』もう読み終わったので読みますか?中日時代のチームメイト田尾安志が星野監督の選手時代の話から書いているので面白いですよ」
と言った。すると、結局フランケンのカバンの中にチラシを押し込め少し誇らしげな健兄さんが、

「どんなこと書いてあった?」
と聞いてきた。僕が真面目に答えようとすると、すかさずヒグピー氏が、
「それ最後死ぬんやろ」
と、得意の延髄狙い打ち回し蹴りギャグをかましてきた。

延髄狙い打ち回し蹴りギャグとはヒグピー氏得意の技で、予想もしない場所から予想もしない場所に、突然回し蹴りを食らったような衝撃のあるギャグのことだ。

その回し蹴りをモロに食らった健兄さんは、腹が痛い!と言いながらバスの中をのたうち回って笑い転げていた。ヒグピー氏のギャグは衝撃があり、さらに後に引く。一通り笑い終えた健兄さんだったが、しばらくしない内にまた思い出してこみ上げてくる笑いに耐えていた。

ヒグピー氏は他にもいろいろ技を持っている。そういえば、関空で朝飯を食べている時に聞いた話にも、全員が打ちのめされて大爆笑になった。

ヒグピー氏が後輩の財布の中から免許証を取り出しナメ猫の写真を後輩の顔写真の上に貼り付けてまた財布に戻していたらしい。しばらく忘れていたが、ある日、後輩が血相を変えてヒグピー氏に詰め寄ってきた。聞けば、郵送物引き取りの際に郵便局で免許証の提示を求められ、何の気なしに出したら自分の顔がナメ猫だったという話だ。

 

[第2章]歌をせがむ中国娘。

1894年に勃発した日清戦争で勝利した日本は、日清講和条約(下関条約)により遼東半島や台湾などを清国から譲り受けた。しかし、アジアの覇権を狙う列強各国はその戦略的価値の高い遼東半島に対して日本がアドバンテージを持ったことが気に入らず清国に返せと言ってきた。いわゆる三国干渉(露仏独三国の遼東半島遷付勧告)だ。もともとは満州への進出を策していたロシアがフランスとドイツを誘って行ったものだ。遼東半島は朝鮮半島の北に位置し、神戸からだと北海道の最北端・稚内とほぼ同じ距離だ。

そしてのこの三国干渉によって、ヨーロッパ列強の本格的な中国分割が開始されることにもなった。当時の中国は横たわる牛のように列強の国々に食い散らかされていたのだ。

中国分割競争
ドイツ……膠州湾(山東半島)の租借
ロシア……旅順・大連(遼東半島)の租借、東清鉄道の敷設
イギリス…威海衛(山東半島)・九竜半島(香港島の対岸)の租借
フランス…広州湾の租借
日本………福建省の不割譲を約束させる
アメリカ…中国の門戸開放・機会均等を主張(ヘイ国務長官)

三国干渉での『清国のためであり、また朝鮮国の独立を尊重するため』というロシアの大義名分はあっさりロシア自身によって破られ、日本が去った後の旅順・大連(遼東半島)をロシアはすぐに我がモノにした。その屈辱的ともいえる遼東半島の返還によって日本ではロシアへの敵対意識が高まり「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに国を挙げて対露戦の準備を進めることになったという。

大連・旅順は、その三国干渉での舞台となった遼東半島の先端付近にある町だ。
「大連は日本人やロシア人などの外国人による統治時代が長かったせいで、中国本土内でも一風変わった雰囲気の町なんです」。

と行きのバスの中で丁寧ちゃんが言っていたが、雰囲気は台湾と似ているなと思った。人口250万人の都市だから神戸市より規模は大きい。
いたるところに広告看板が立っていて、その看板は当然ながら漢字のオンパレードなのだが、共産主義圏の国がこんな広告を出しているとは驚きだった。


いたるところに看板が。これは政府筋のものか?▼

中華思想を捨てきれず、時代に逆行した軍事大国としての中国の脅威とともに、膨大な人口を抱えた中国がより開かれた国となり、日本と同じ自由な資本主義の盟主となる可能性が非常に高い現実が、まさにこれなんだなと実感した。どこに行っても上海・上海と言われるが、ここ大連を見ても分かるように、中国は確実に変わってきている。これから中国という国は色んな意味で恐ろしい。

 ▼モンゴル人のオッサン。とんだ食わせモノだった。

チェックインを済ませ、我々御一行様は大連市内観光へと向かった。さっきの丁寧ちゃんに変わって、布赫(フヘ)という見たことないような字を書く、モンゴル人のオッサンがガイド役として案内してくれた。

今度はさっきより小さめのバスに乗って、ロシア人街や伊藤博文も泊まったというホテルなどを観光した後、日本人街に行った。日本人街と言っても、きれいに舗装された道の両側に異人館風の建物が連なっているだけで、しかも先に行ったロシア人街と殆ど同じだった。


▼ヤマトホテルをバックに健兄さんとフランケンをパチリ。

バスを降りて日本人街を歩いていると、日本でもあまり見ないような抱き合ったカップルがいてまたしてもド肝を抜かれたが、これが現在の中国なのだと納得した。それからしばらく歩いていると小学校高学年くらいの中国人の女の子が何やら僕たち日本人達に興味があるらしく、ずっとこちらを見ている。と言っても表情は笑顔だから、南京大虐殺の恨みをこの場で果たしてやるといった感じでもなかった。女の子はこちらに近づいてきた。そして、

「学校教科書的掲載歌意味教願望切望期待願。此日本人的歌唄教又一緒唄願望切望期待願鈴木宗男悪男北方領土返還希望・・・」

みたいなことを言い漢字しか書かれていない教科書を取り出して、その教科書の中の1ページを指差して何やら言っている。一緒に歌を唄えと言ってるようだ。

 ▼ここでも健兄さん。中国娘のために大声で歌を歌ってやった。

モンゴル人のオッサンが言うにはそれは日本の歌らしい。日本の国を国とも思っていない中国の、それも中華思想と反日思想をもっとも教え込むべき教科書に日本の歌が載っているとは俄かには信じ難かった。しかし、中国娘がそばにいたもっと珍しいであろう白人には目もくれず同じ東洋人の僕たちに熱い視線を送っていたのだから、モンゴル人のオッサンの言うことに間違いはないはずだ。しかしよくよくその教科書を見てみると結構使い古されているようだ。ということはもしかしてこの教科書は、この中国娘のものではなく、例えば満州は関東軍に属する日本人軍人だった祖父の遺品として、孫娘が後生大事にしていて、小さい頃祖父に唄ってもらった日本の歌を聞きたがっているのではないか、と勝手に想像してたりしていたが、やはり出てくるのは戦前の日本の教科書に載っていたような古い歌ばかりだった。

しばらくその場所で中国娘にせがまれるままに、健兄さんが中心になって日本の歌を歌ってあげていた。

「僕らはみんなぁ生きているぅ~いき~ているから歌うんだぁ~♪・・・」。

決して健兄さんの歌声が良かったわけではないだろうが、中国娘は本場もんの日本語による日本語の歌を聞いてたいそう喜んで去っていった。

「喉渇いたでしょうからお茶でも飲みましょう。この先にいい店あります」。

とモンゴル人のオッサンが、いかにも長年のガイド生活で得たであろう絶妙のタイミングで言った。実際僕たちも少々疲れていた。
「お茶飲みに行くらしいで」。

健兄さんが言うと、フランケンは
「いいっすね」。
と、いつもの応援団風の「っす」言葉で返事をした。
モンゴル人のオッサンは、僕らがお茶を飲むことに同意した瞬間に、水を得た魚のようにすいすい歩いていった。

「杉野ぉぉぉぉ!杉野は何処へぇぇぇ!」。

と言う健兄さんの後に連なり、僕らはモンゴル人のオッサンの後についていった。
健兄さんが叫んだ「杉野・・・♪」について、きっと何のことは分からないだろうから説明すると。

日露戦争で活躍した日本人の中でも名の知れた人物に広瀬武夫中佐がいる。中佐は日本の東郷平八郎率いる連合艦隊に属していた。艦隊は旅順口でロシアの艦隊が港から出てきて海上をあらしまわることを防ぐため港口を見張っている。しかし、本来の目的はバルト海からやってくるもう一つの艦隊であるバルチック艦隊が来る前に、この旅順艦隊を全滅させることだった。そして2ヵ月ほど掛かる艦隊の修理を終え今度はバルチック艦隊を再び全滅させなければ日本の勝利は無いという悲壮な状態であった。

そのために陸軍が旅順の要塞を落とし、陸から旅順艦隊を全滅させる作戦を採った。その作戦を担うのが乃木希典率いる部隊である。しかし死体の山を築くだけで全くロシアの要塞はびくともしない。そこで、海軍は狭い旅順口を古い船を沈め閉塞(へいそく)しようと思い立った。ここで広瀬中佐の登場である。

一度目は失敗した。二度はロシアの砲撃を喰らいながらなんとか沈没させる位置へ到着し船を沈め始めた。駆逐艦へ戻るボートに乗り移ろうとした広戦中佐は、部下である杉野兵曹がいないことに気が付いた。中佐は再び沈み行く船に戻り、「杉野は何処(いずこ) 杉野は居ずや!」


▼旅順口:左の赤丸あたりに福井丸、右のあたりに報国丸が沈められた。

と叫び、そのまま敵の砲弾を浴びて帰らぬ人となった。この勇気ある行動を称え、中佐は一躍時の人となり広瀬中佐を題材とした歌も出来た。その中に一節にあるのが先の健兄さんが叫んだ言葉なのだ。われわれはそのまま健兄さんとともにモンゴル人のオッサンの後を追った。
「ここです」。
モンゴル人のオッサンが案内してくれたのはおしゃれな異人館といった感じの建物だった。ちょっと喫茶店という雰囲気ではなかったが、案内されるままに建物の2階に上がっていった。

[第3章]チャイナドレスの怪しい喫茶店。

店に入ると一番奥の部屋に案内された。真っ白い壁の15帖くらいある広い部屋で、ゴージャスなドデカいコーナーソファーが置かれていた。(喫茶店?)という疑念を抱いたまま言われるままにゴージャスソファーに座った。しかし、旅行者向けにわざわざ豪勢な店に連れてきてくれたのかもしれないし、ちょとVIPになったようなで気分で、悪い気はしなかったのでその場では平静を装った。

奥からチャイナドレスを来た厚化粧のママ風な女性が出てきた。

「飲ミモノエランデクダサイ」。
たどたどしい日本語で、テーブルの上にメニューを置きながらチャイナママは言った。

「好きなもの選んでください」。
モンゴル人のオッサンも言った。

僕と健兄さんとフランケンとヒグピー氏はアイスコーヒーを頼み、豆タンクは一人ミルクティーを頼んだ。豆タンクは一人甘いものが好きなのだ。

飲み物が出てくる間、代わりに今度は青いチャイナドレスを着た化粧っ気の無い若い女性がオツマミを運んできた。青チャイナはドンドンおつまみを運んできた。もちろんオツマミなんか誰も頼んでないのにドンドン運んできた。

「さ、さ食べてください」。
モンゴル人のオッサンが言った。チャイナママも出てきて「ドウゾドウゾ」と言った。そして、名刺を僕ら一人一人に渡しはじめた。この喫茶店はやはり何か違う。仰々しく名刺を渡し終えたチャイナママは僕らの横に座り、たどたどしい日本語で僕らに質問してきた。

「ドコカラキマシタカ?」。
「神戸です」。
「イツコラレマシタカ?」。
「今日です」。
「イツマデイマスカ?」。
「明後日帰ります」。

チャイナママは知っている日本語を全部しゃべると、それ以上しゃべらなくなった。

その後、モンゴル人のオッサンと雑談をしてさあ行きましょうということになった。お勘定を頼むと、チャイナママは笑顔で金額を伝えてきた。

「350元デス」。
チャイナママのたどたどしいけど決意のこもった金額提示を聞いた豆タンクが、心配そうな顔で僕に言った。

「350元だって言ってます」。
350元と言えば、日本円で約5千円である。まああれだけオツマミが出てきたのなら仕方がないかな、日本でも一流のホテルだったらそれくらいはするよな。と思いながら支払いをすませた。

「幾らやった」。

ヒグピー氏が言うので金額を言うと、丁寧ちゃんが言ってた中国における平均賃金を覚えていたヒグピー氏が、「確か中国人の平均月収が月3万円って言ってたな。ということは5千円だと、月収の6分の1だ。日本の平均月収が20万円で6分の1だと3万円。お茶代で3万円掛かったことになるやん」。

分かるような分からん例えだが、ヒグピー氏が指摘する通り中国人の給与の6分の1を、わずか1時間ほどの間にお茶を飲んだだけで消費したことは確かだった。

まあ仕方がないか、ということで僕らはまたバスに乗った。予定していた観光スポットは一応終了し後はホテルに向かう予定だった。

モンゴル人のオッサンはさも一仕事終えたような表情で座っていたが、しばらくすると、「足疲れてませんか、中国の大変マッサージ効くね。足つぼマッサージ日本人に人気ね。今からその店行くね」。

と言って今度は足つぼマッサージ屋に連れて行くつもりらしいことが分かった。

「今度はマッサージ屋らしいで」。
健兄さんが言った。
「このオッサンさっきの店のママともつるんでるんやろな。絶対バックマージンもらってるんやで」。
ヒグピー氏がスルドク言った。

すでに僕らはモンゴル人のオッサンの魂胆が分かっていたので、オッサンに、マッサージ店には行かないと言った。モンゴル人のオッサンは食い下がった。「ホテルの帰り道にあるよその店は。すごく気持ちいいよ」。
「いいです。そのままホテルに行ってください」。

と僕が言ったにもかかわらず、モンゴル人のオッサンは、マッサージ屋にバスをとめ、「さあここです」。と僕らの意見をまったく無視してマッサージ屋に入っていこうとした。


▼大連市内で。

いいかげん頭に来て、僕はもう一度モンゴル人のオッサンに言った。
「僕ら誰もマッサージしませんので、このままホテルに戻ってください」。
モンゴル人のオッサンはさも“稼ぎそこねたぜ”というような顔をして、渋々バスに戻ってきた。

さすがに疲れたのか、バスがホテルについてもなかなか腰が上がらなかった。いつまで立とうとしないヒグピー氏にフランケンが、「行きましょか」と言うと、ヒグピー氏は、
「行く時は一緒」。

と、この後に及んでこれも得意のエロエロ攻撃に出た。もちろん健兄さんはのたうちまわっていた。

ホテルに戻り夕食までには少し時間があったので部屋で少し休み、再びモンゴル人のオッサンのバスに乗って出掛けた。

これまた豪勢な店だったが、一応この夕食は旅行代金に含まれているはずなので、またまたボッタクられるという心配は無かった。

食べきれないほど出てきた中華料理を満喫してホテルに戻るバスの中で、
「もう女の子はいいので、ちょっとお酒が飲める店ないですか?」。

とモンゴル人のオッサンに聞いた。昼間のチャイナママの店の件があったが、聞く人はこのオッサンしかいないし、ちゃんとリクエストすればいくら何でも変な店には連れて行かないだろうと思って聞いてみたのだ。

「ああそれなら、僕の知っている店でいい店あるよ」。

モンゴル人のオッサンはそう言った。2・3日前から風邪気味だった豆タンクをホテルに送って、僕らはモンゴル人のオッサンのバスでその店に向かった。

[第4章]チャイナドレス再び。

バスは見慣れた道を走っていった。確か昼間に行った日本人街と言われる場所だ。海岸線を一望できる小高い丘にある日本人街は、いわゆる山の手に位置する一番良い場所にある。日露戦争に勝利した日本は、この土地を占領し見晴らしの良い一等地に居留地を作って日本人を住まわした。その点だけを見ても本当に巨大国ロシアを破ったんだという事実を僕らにはっきりと認識させた。

今でも当時の面影を残す古い建物が多く残されていて、最近建てられたであろう洋風の建築物もその合間合間にいくつかあったが、人の気配が全くせず、夜になると街灯も少ないその街は不気味な気配さえ漂わせていた。バスの窓からその暗く沈んだ街並みを見て僕は、絶望の淵から這い出してきたような日露戦争の勝利という光と、大東亜戦争による屈辱的な敗戦の影が複雑に頭の中を駆け巡っていた。そして何故か軍服を着た日本人の憂いを帯びた笑顔が浮かんできた。

「着きました。ここです」。
モンゴル人のオッサンは、いかにもフツーを装った声で言った。
「ここってなんか来たことない?」。
ヒグピー氏が素っ頓狂な声で言うと、ヒグピー氏が言い終わる間もなく健兄さんも言った。
「うっそや!これ昼間のチャイナドレスのぼったくり喫茶店やん!」。
「マジっすか?」。
フランケンも言った。
「オッサン、ええ根性してるな」。

僕が言うと、すでにモンゴル人のオッサンは全く意に介した様子もなくまたしてもスタスタ歩いていった。店の前は、昼間と違って申し訳程度のネオンが光っており“スナック”と書かれた文字を見て、ここはまさしく昼間は日本人観光客のためのぼったくり喫茶店であり、夜は日本人観光客のためのぼったくりスナックなのだと理解するのに時間は掛からなかった。
「どうする?」

健兄さんは朝剃ったにもかかわらず、暗闇の中でもそれと分かるほど青白く輝く髭面で言った。
「これは予想外の展開やな」。
ヒグピー氏の得意のギャグもなりを潜めていた。

「オッサン、どこが僕の知ってるええ店があるや。ホンマあきれるわ」。
健兄さんの髭は相変わらず青光りしていた。しかしまあええか取って食われる訳でもないし、これも旅の思い出作りだ。誰ということなくそういう結論になり、モンゴル人のオッサンにここまで露骨にしてやられたら、してやられてしまえホトトギスという心境で統一することにした。怖いもの見たさという気持ちもあった。
「ドウゾドウゾ」。
チャイナママが出てきて言った。
「どうぞどうぞ」。
モンゴル人のオッサンも言った.

昼間と同じ奥にある白い壁の広い部屋に通された。しかし、夜の店らしいライティングになり昼間とは違う場所に来たような雰囲気だった。モンゴル人のオッサンは昼間と同じ場所に座ってとぼけた少年のような顔をしている。チャイナママが言った。

「水割リデイイデスカ」。
恐ろしく日本語が下手なくせにこんな言葉だけは知っている。
「うん、ええよ。水割りちょうだい」。
健兄さんはすっかりこの雰囲気に寛いでるのか諦めてるのか分からない口調で言った。

「カラオケもあるので歌ってください。日本の歌もあります」。

平気でそんなことを言うモンゴル人のオッサンの心境が不思議だった。良心の呵責というものがないのだろうか。それとも昼間のオッサンとは双子の兄弟なのだろうか?オッサンの態度を見ていると思わず錯覚してしまいそうなほど平然としている。フツーなら
「僕の知ってるイイ店がある」。じゃなくて「昼間の店もう一度行きますか?」だろ。

しばらくするとチャイナドレスを着た女の子が4人入ってきて、それぞれの横に座った。つまりいわゆるクラブ状態である。女の子たちはみんな違う色のチャイナドレスを着ていて大学生といった感じで全体的に若い。

横目で健兄さんを見るとちょとニタついている。まんざらでもなさそうだ。ヒグピー氏は鶏のように首を伸ばして横目になって女の子を見ている。チャイナ娘たちはおのおの水割りを作ったり奥からドンドンオツマミを運んだりした後、乾杯しましょうということになった。

大連外国語大学の学生だという娘たちは、一人を除いて日本語が全然しゃべれなかったが、まずは自己紹介ということで名前を聞かれた。日本語が分からない中国娘相手に本名を言うのもなんだということで、それぞれ芸名を名乗った。まずフランケンは伊地知幸介という名前になった。伊地知幸介とは、日露戦争の旅順において日本人6万人を殺傷した張本人で、当時は乃木将軍の下で参謀として旅順攻略の愚劣なる作戦を繰り返した人物だ。後は東郷平八郎だとか西郷隆盛だとか高杉晋作といった有名人たちの名前を頂戴した。チャイナ娘たちはあんまり信じてなさそうだった。

次第に酒がすすみ、筆談を交えてそれぞれがそれぞれのチャイナ娘と盛り上がっていった。
健兄さんは、黄チャイナとチャイナママの二人を従え、いつものようにおちゃらけしたり冗談を言ったりしてたが、あまり擦れていないチャイナ娘とチャイナママの二人はしょうもない健兄さんの言動にいちいちウケていてた。健兄さんは大層ご満悦の様子だった。

「オレごっつい気持ちええわ。日本でこんな待遇受けたことないわ。日本に帰るの辞めよかな」。

健兄さんは結構本気だったと思う。日本ではすぐにトミーズ健に似てるだの冗談のレベルが低いだのといつも言われっぱなしだからだ。フランケンと赤チャイナの二人は基本的に筆談中心だったが何か二人の世界が出来あがっており容易に話掛けることができなかったが、時々、

「こらぁ伊地知ぃ!」。
と叫んで二人の世界を切り裂いておいた。僕の横に座った青チャイナは他のチャイナとは違いちょっと垢抜けてなくて、こんな店で働いていることが似つかわしくないような子だった。話も途切れがちで、僕は日本語の上手なヒグピー氏の横についた緑チャイナとヒグピー氏のギャグに大笑いしていることの方が多かった。ヒグピー氏のギャグは万国共通のようで、緑チャイナもお腹が痛いといって涙を流しながら笑っていた。

そんなこんなでかなりハチャメチャな様子になってきた。健兄さんはオヤジのように黄チャイナどダンスを踊っているわ、見るとヒグピー氏もスケベタッチをしていた。僕とフランケンもそれぞれのチャイナ娘とダンスを踊らされたり、健兄さんはまた受けようと思ってコサックダンスを踊ろうとしてぶっ倒れたり、全員でフォークダンスを踊ったりともう何がなんだか分からなくなってきた。モンゴル人のオッサンも一緒になって歌い踊り、スゴク嬉しそうにしていた。僕もなんだかんだ言って結構楽しかった。

「じゃあそろそろ帰ります」。
と言うと、チャイナ娘たちは自分が担当した連中それぞれと別れを惜しんでいて、なんだか現地妻たちとの別れみたいな雰囲気になっていたが油断は禁物である。一応、みんなの持ち金は確認しているが、いよいよ支払いとなると、昼間が昼間だっただけに少し怖い。
チャイナママが奥から伝票らしきモノを持ってきた。いよいよ来た。

「42,000元です」。

チャイナママの顔が少し怖かった。しかし42,000元とは予想を上回る金額だった。日本円にして約6万円。日本のクラブだったら当然それくらいはする。しかしここは中国である。今日の昼間、現地の人が行くような店で食べた餃子が3元だった。日本で食べるときっと500円はするような餃子がである。そして今日発見されたヒグピー氏式計算法で計算すると、中国人の1ヵ月の給与が約21,000元(3万円)であるから、僕たちはつまり給与の2ヵ月分を一晩でイッキに使ったことになる。あと1ヵ月分足すと婚約指輪が買えるではないか!つまり日本円で言うと約40万円もの大金を使ったことになるのだ!あくまでヒグピー氏式計算法ではあるが、大枚をはたいてしまったことに違いはない。

僕らはチャイナ娘たちに手を振られながら店を後にした。
「給与の2ヵ月分やで。ホンマに」。
ヒグピー氏はまだボヤいていた。
「マジっすか」。
フランケンもちょっと怒っていた。
「さっきの女の子は本当に可愛かったなぁ」 。
健兄さんはまだ余韻に浸っていた。
「えらいキミだけ楽しそうやったな」。

僕が言うと、健兄さんはええやろと言った。
ホテルへ僕らを送り届けるとモンゴル人のオッサンは機嫌良く帰っていった。僕らはこのまま寝るのも何なんでルームサービスを取ってしばらく酒を飲むことにした。
「そやけど、よう考えたらさっきのオッサンも酒飲んで一緒に歌ってたな。つまりあのオッサンの勘定もこっちが一緒に払ったってことやなぁ」。
ヒグピー氏は半ばあきれ顔で言った。僕らは笑うしかなかった。
アジア各国ではNHKが放映されていて、テレビをつけるとちょうど“のど自慢”をやっていた。
「もうすぐ街の名物ばあさんが出てくるで。ほら出てきた。次はOL三人組か?ほら言ったこっちゃない・・・・」。
ヒグピー氏の絶妙のツッコみに僕らはゲラゲラ笑っていた。しばらくして酒もなくなってきたので寝ることにした。明日はいよいよ旅順である。

[第5章]いよいよ旅順へ。

朝ホテルの窓から大連の街を眺めると全体的にどんよりした色が漂っている。聞くと中国独特の黄砂が例年以上に大陸を覆っているらしい。日本でもつい最近大量の黄砂に見舞われていたが、ここ中国の黄砂はそんなナマ優しいものではなかった。


▼ホテルの窓から見る大連市内これは一日目に撮影したので黄砂に影響されていない。

今日のガイド役は丁寧ちゃん。確か丁寧ちゃんも大連外国語学校を卒業したと言ってたな。丁寧ちゃんは日本語がウマイしこんな堅気な仕事をしているから真面目なんだろうなぁ。嫁さんにするなら顔が可愛いだけじゃないこんな子の方がいいな、と思うと顔が平べったい丁寧ちゃんの顔がとても可愛く見えた。
大連空港で一緒だった老人二人組と老夫婦とともにバスに乗り込み旅順に向かった。
いよいよ旅順である。ところで『坂の上の雲』の中にこんな記述がある。

「旅順」
というこの地名は、単に地名や言葉というものを超えて明治日本の存亡にかかわる運命的な語感と内容をもつようになった。
-日本は、旅順で滅びるのではないか。
という暗い感じをたれしもがもった。幕末から維新にかけて日本は史上類のない苦悩をへて近代国家をつくりあげたが、それがわずか37年でほろびるかもしれない、ということであった。

日本人にとって何とも言えない響きを持つ旅順はそうした歴史の重みから生まれたのだろうか。僕も何故か旅順と地名を聞くと、他の地名とは違ったニュアンスを感じてしまうようになっていた。

バスの中では殆ど寝てた。気が付けば大連の街並みとは全く違う風景が広がっていた。道は全く舗装されておらず道行く人々は小さな馬に乗ってた。いかにも貧しそうな家にいた子供の表情はテレビでよく見る難民の子供のような大きな感情の読み取れない目をしていた。同じ東洋人の顔をした人々を見ると、日本の昔もこんなだったんだろうなと思った。そして、生活することに必死になっているような旅順の人々と都会に暮らし大学に行くような若い女の子が外国人を相手に自分たちの月給の2倍を一晩で稼ぐような商売をしている大連という大都会。これほど大きなギャップがわずかな距離に共存する国をすごいとも思い怖いとも思った。
旅順は軍港であるという理由から外国人旅行者に対する規制が厳しく1996年になってやっと旅行者に対して門戸を開いたばかりだ。現在でも中国政府が認める旅行会社が企画するパックツアー申し込み者しか訪れることができない。さらに指定された場所以外バスから降りることも禁じられているのだ。


▼東鶏冠山にて我ら5人組。左から「豆タンク」「僕(上)」「フランケン(下)」「健兄さん」「ヒグピー氏」

バスに乗ったまま最初に降りることを許可されていた場所は、東鶏冠山といわれる旅順における最初の激戦地だ。日清戦争ではカンタンに落とせたという先入観があったことが悲惨な結果を生んだ最初の理由だったことは否めない。しかし、最たる原因である伊地知参謀長の無能な作戦によって日本人たちが埋め草のようにただ屍になっていった場所だ。司馬遼太郎の“坂の上の雲”にこんな表現があった。

「これはすでに戦争ではない。災害だ」。
自分の息子が、相手の首一つも取れずただ指揮官が無能だというだけで死体となっていったと知ったらどうだろう?自分のお腹を痛めて生んだ子が、泣く泣く送り出した最愛の息子たちが、ここでただ単なる死体山の一部となっているだけだと知ったら一体どうだろう。僕は居たたまれない気持ちになった。
ここはロシア軍最大の要塞だ。現在でもその面影が窺える堅牢なベトンで固められた壁がところどころ崩れており、聞けば日本軍の激しい攻撃によるものらしい。今は雑草が生えるこの土の上を日本人兵の屍が地面が見えないほどに埋め尽くしていたと思うとまた胸が痛くなった。

▼激しい戦闘の様子が今でも伺える。

 要塞は今でも当時の激戦の様子を激しく物語っていた。また、日本軍が掘った長大なトンネルなども現存している。

ただ本で読むような凄まじい様子がこの地で行われ、そしてここで多くの日本人が死んでいったということが、僕の中で具体的なイメージとしてあまり湧いてこなかった。現実のあまりに悲惨な状態を容易に想像することの怖さを自分自身が感じそれを拒否してしまったのかもしれない。

その後バスで20分ほど走り二百三高地に向かった。行く前にたくさんある日露戦争関連の本に掲載されていた一枚の写真と同じ構図の写真を撮ることが、ここでの最大の目的だった。その写真とは悲願だった旅順を二百三高地から攻略した日本軍が撃沈された旅順艦隊を背景に、その旅順港を洋々と臨んでいる写真だ。
二百三高地はその名の通り203mある高地のことで、203mと言えば小高い丘のようだが、実際行ってみるとちゃんとした山だった。その山の中腹までバスで行き、後は歩いて登るか人力車みたいなのに乗って登るしかない方法はない。もちろん若人である僕たちは歩いて登ったのだが、健兄さんはかなり人力車に乗りたそうだった。

▼これと同じ写真が撮りたかったのだが場所が全然違った。


▼203高地だ!

ぜいぜい言いながらやっとのことで頂上に着いた。そこには高さ5m程もある忠魂碑が建っており、側面には『爾霊山』という文字が書き記されていた。タイトルにもある『爾霊山(にれいさん)』は、203を音読みした当て字で、この地の最高司令長官だった乃木希典が付けた。爾(なんじ)の霊の山という意味を持つこの命名は、多数の命を落とした日本人に対する自責の念と鎮魂の想いを込めて生まれたものであろう。なんとも悲しい響きがする。

 朝からそうだったようにここ旅順でも黄砂で視界が悪く、爾霊山から旅順港は全く見えなかった。もちろん最大の目的だった写真は撮れなかった。仕方が無い。もう一度来いという意味なのだろうと解釈し、その写真は次回に取っておくことにした。乃木希典の次男である乃木保典殉死の石碑なども見た。乃木将軍もそうだが息子の保典も読み方は(ヤススケ)なのだが、その石碑のフリガナは(ヤスノリ)になっていた。
多分、ここにまで来る日本人の殆どが日露戦争記を読んで来ているような人だから、きっといつも指摘されているのだろう。

▼乃木将軍と敵将ステッセル。

▼97年後の同じ場所。

旅順市外を抜け大連市内へ戻ってきた。夕食まで多少の時間があったのでビリヤードなどをして時間を潰した。今夜の夕食もツアーに組み込まれており、僕たちはバスに乗ってレストランに向かった。

[第6章]最後の夜。

今日は昨日と違い昼間同行していたオッサン二人組と中年夫婦らを交えて同じテーブルを囲んだ。メニューは海鮮しゃぶしゃぶだ。テーブル一面にしゃぶしゃぶ用の魚や貝や肉などが並び、自分でそれらを小さな個人用の鍋でしゃぶしゃぶして食べるという寸法だ。オッサン二人組たちとも会話をしたりしながら和やかな雰囲気で食事をした。
「キミたちは同じ会社かね?」

オッサンが聞くとヒグピー氏がすかさず、
「いや僕だけ違う会社なんです。違う会社なんですがここはイイ会社ですよ」。
と言っておいて続けざまに、
「まぁ一人をのぞいてですけどね」。

ヒグピー氏の小ネタにまた健兄さんが吹き出していた。その一人というのは健兄さんの部下で出来の悪い力士みたいな男のことなのだが、ヒグピー氏はこの男のことを写真で見るなり、
「なんやこんなトンカツ揚げているような奴アカンでぇ」。

と人の会社の従業員のことをボロカスに言い、続けて、
「こいつ絶対休みの日に動物の柄の入ったトレーナーとか着てるはずや」。
とも言っていた。しかし的を得ていた。うちの会社では大爆笑だった。


 

▼アク取りは武田久美子の水着?

で食事も進み、各人の前にある小さな鍋で雑炊を作るようご飯も出てきた。
ご飯を鍋の中に入れると、前に残っていたアクやなんかを取りたくなるのだが適当な器がない。健兄さんが困っていると、ヒグピー氏は親切にもさっきと食べたホタテ貝の貝殻がいいということで健兄さんに進呈しながら、
「この貝殻、武田久美子の水着みたいやな」。
と言ってまた場内の爆笑をさらっていた。

食事も終わり、さて最後の夜をどう過ごそうかということになった。
「昨日のこともあるし、お姉ちゃんのおらんような店探そうや」。
と健兄さんが心にも無いことを言うと全員が賛同した。しばらく街を歩いていると『Heneken』と書かれた看板を目に入った。 「これは大丈夫やろ」。


▼酒が入って単なるオッサンになっている豆タンク

ということで店に入っていった。予想した通りフツーのバーといった感じで全然怪しくない。全員で良かった良かったと胸をなでおろした。日本語は全く通じなかったのだが、なんとかヒグピー氏と健兄さんのボディーランゲージで酒を頼み、何事もなくこの夜が終わるかのような雰囲気だった。がそうは問屋が卸さなかった。

ヒグピー氏は何かというとすぐ、「ちょっと棚卸で忙しくて」と言うがそれとは関係ない。だいたい広告代理店に棚卸しなどという仕事はない。あるいは、「明日サイン会の予定がなくなったから大丈夫やで」、とか「今日は家で写経せなあかんから帰るわ」、とかもよく言うがそれは今単に思い出したから書いただけで、これからのこととは何ら関係ない。
で、ここからはちょっとドキュメンタリーな感じを出すためにプロジェクトX風に話を進めていく。

(ここからプロジェクトX風)
最初は良かった。最後の夜を全員が堪能していた。店の女の子が来た。日本語がしゃべれる子がいると言っていた。興味を持った。その子が来た。大きな目をしていた。殆ど日本語を喋れなかった。僕たちをダンスに誘ってきた。興味を持った。女子大生だと言っていた。ますます興味を持った。とにかく店を出て一緒にどこかに行きたいと、彼女は言った。友達もいると言った。僕たちもその友達に会いたいと思った。ちょっと不安はよぎった。でも全員同意した。店を出た。女の子にいわれるがままにタクシーに乗った。
(プロジェクトX風終わり)

その子も昨日と同じ大連外国語大学の学生で日本語を専攻していると言う。わりと今風の可愛い子で、最初は日本人かと思ったくらいだった。専攻していると言う割には全然日本語が下手でコミュニケーションを取るのにかなり疲れていたが、その子が言いたいことは何となく分かった。
最初は自分たちが良く行くクラブ(ダンスの方ね)に一緒に行かないかということを言ってた。ところが、やっぱりその店は外国人に厳しい店だから警察沙汰になるかもしれない。なので、自分の友達がやっているカラオケ店があるのでそっちに行かないかという風なことを、まどろっこしく言ってたのだ。今から考えるとすぐにカラオケ屋と言わないのは作戦だったのかもしれないが、欲深い我々は怪しいことは重々承知の上またしても。

「これも旅の思い出やで」。
ということでホイホイとついていったのであった。だが、一応我々にも学習能力はあるので、念の為お金がコレだけしかないということも一応言っていた。
タクシーで着いた場所は、まさしく僕たちが予想していた通りの場所だった。見上げると『スナック神風』とか『バー大和』とか『カラオケZ旗』とか、名前は適当だがそんな風な名前のネオンが日本語で読み取ることができた。ここまで来たらええいどういでもなれ、と言う面持ちで5人は言われるがままにカラオケ店へと入っていった。
目パッチリ娘はまたしてもまどろっこしい日本語でこの店のシステムを僕たちに説明し始めた。まず友達(要は店の女の子だ)が来たらまず1,000元を渡さなけばいけない。そして飲み放題歌い放題で一人1,000元という料金設定らしい。豆タンクを除いた4名はまたかという感じだったが、豆タンクは昨日を知らないので少しウキウキした顔をしていた。
「もう何でもええからはよ女の子よこさんかい!」

健兄さんがけたたましく言った。
「マジっすか」。
フランケンも言った。
一度部屋を出て行った目パッチリ娘は、総勢5名の女の子とともに再び部屋へ入ってきた。昨日に比べてみんな今風な感じだった。また女の子はそれぞれの横に座ってクラブ状態になった。
豆タンクの横に座った子とヒグピー氏の横に座った子が何故か豆タンクのことを気に入ったみたいで、豆タンクはたいそう嬉しそうな顔をしていた。そしていつになく饒舌だった。
「なんでなんですか。なんか僕気に入られているみたいですぅ!」

満面の笑みだった。フランケンはまたしても二人の世界に突入しつつあった。今日は「伊地知ぃ!」とは叫ばずそっとしておいた。


▼ステキな顔で踊るヒグピー氏

健兄さんはまたしてもさっきの目パッチリ娘ともう一人の子の間に挟まれて楽しげだった。僕の横についた子はハッとするほどエキゾチックで端正な顔立ちをしていたが、全くしゃべらなかった。突然しゃべったと思ったら、
「ワイン飲ノンデイイデスカ」。
だってさ。馬鹿にしてる。


 ▼ちゃっかり目パッチリ娘と踊る健兄さん。表情は真剣だ。

まあそれでも大連最後の夜だし楽しもう!と思ったら目パッチリ娘がこんなことを言い出した。
「私タチ学生デス。明日朝早イデス。モウ帰リマス」。
もういい加減切れそうだった。
「キミら日本人ナメてんのか?」。
健兄さんがちょっとドスの効いた声で言った。

中国娘たちは意味がわからなかったようだ。で、目パッチリが言うには最初言ったみたいに女の子たちに1,000元づつ渡せと言っていた。渋々渡すと、目パッチリ以外の子はそそくさを部屋を出て行ってしまった。マジで馬鹿にしてる。そして、女の子達が飲み食いした料金を払えという。その額6,000元。
「最初とえらい話がちゃうやん!」。

健兄さんは怒っていた。しかし、部屋の外には屈強なお兄さんが待機していることも分かっていたのでそれ以上は何も言えなかった。
目パッチリは僕らが相当怒っていることは理解したようで、とりあえずお金を払ってもらわないとこの店を出られないが、最初言っていた金額から足が出た分は明日ホテルに返しにいくから、何時に行ったらいいか教えてくれと言う。
「そんなもん嘘に決まっとうわ」。

僕がそう言っても、目パッチリは本当に分からないのか分からないふりをしているのか知らないが、大きな目をさらにパチパチさせて「明日行キマス」と連呼していた。

[第7章]日本へ凱旋帰国。

思った通り目パッチリ娘は来なかった。というより今頃学校で、昨日の日本人がいかにバカだったかについて話をしているに違いない。まず目パッチリ娘は我々日本人をいかにうまく口説きカラオケスナックまで連れて行ったかを自慢気に話し、そして明日お金を返すと嘘を言ってたら本気にしてたよ、と言って大笑いしているに違いない。

これでは中小企業のハゲた社長と変わらないではないか。しかし日本人がいかにカモにされているかはその昔行ったインドネシアなどでも知っていたが、中国人はさらに磨きが掛かっている。この商魂は在る意味尊敬に値する。負け惜しみではなくそう思う。

さて念願の旅順旅行であるが、本当のところを言うともっと感動すると思っていた。つまりイマイチ心の奥にググッと来るものが無かったというのが正直な感想なのだ。理由は分からない。ただ、パールハーバーに行った時と同じく思ったのは、こんなところまで戦争しに来るということはスゴイなぁ。ということだった。つまり、現在の発達した交通手段ではなく当時のスピード感覚でこんなところにまで来るという行動力や、ロシアやイギリスやアメリカとともに戦略を持って戦争を行ってしまうほどの鳥瞰的な視野を持っていたという点に感動するところがあった。

僕はサッカーのことはよく分からないが、先日のワールドカップの中田英寿選手のパスを見てこの鳥瞰的な視野という特異な才能というものを素人ながら感じたのだが、日露戦争当時の日本の指導者たちにもそれがあったのだろうと思う。今の政治家にはそれが全くない。唯一持ち合わせているのは現在の石原慎太郎都知事くらいだろう。
そういった意味では改めて昔の日本人の凄さと今の日本人の情けなさを感じた旅でもあった。

それはそうとあの女子大生達はちょっとやり過ぎだ。今までカモになった日本人が山のように居たから、僕らもカモにしか見えなかったのだろうケド。ちょっとソープ行って説教するオッサンみたいだが、でも絶対にあの女子大生達はきっとろくな大人にならんと思う。日本に来る東洋人の子を見るとたいてい純粋な子が多いような気がしていたのだが、気のせいなのだろうか。

そういえば、帰りの大連空港で親に見送られる高校生みたいな若者が多く、よくよく観察してみると日本の専門学校や大学に留学に行くのを見送っているらしく、“バラ珍”の親子ご対面みたいに涙して抱き合っているような家族が多かった。こんな日本に来るような子たちはきっと家もものすごく裕福なのだろうから純粋なのだろうか、それとも僕らが騙されているだけなのかよく分からんけど、大連空港は前日の黄砂で飛行機が飛ばなかったのと、“バラ珍”親子が多かったので大大大混雑していた。

というわけで、次はガダルカナル島にもでも行こうと思っているので、ぜひ我も!という方はご一報下さい。

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